金魚すくい

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先日の日曜日に恒例になっている夏祭りを町内にある公園で催したときのお話です。「金魚すくいを担当してくれますか。金魚は手配しておきますから」というお話があって、引き受けることになりました。当日二時から準備をするということで、公園に出向いてみると、もうすでに数人の人たちがいて準備は終わっていました。

 

金魚すくいのおやじさんになるのは初めての経験で、少し気負っていたけれども、よい経験になると思って引き受けることにしたのです。午後の四時になったので60×100センチ深さ20センチのプラスチック製コンテナ2つに、水を半分溜めたところに小さな金魚を250匹分散して入れてみた。

コンテナの中の金魚はしばらくはばらばらになって泳いでいたが、そのうちに落ち着いてくると群れをして泳ぐようになっていた。弱っている金魚もあって二匹ダメになったので、公園の脇を流れる側溝に網ですくって流した。金魚は持ってきた時はビニール袋がぱんぱんになった中に入っていた。酸素が充満しているとのことだった。

 

金魚をすくう時の道具は、プラスチック製の虫めがねのような形をしたものに薄い紙が貼ってあるものだった。この紙は水に濡れると、水の水圧でも簡単に敗れるほど弱いものだった。けれどもそれを器用に使うと思ったよりも簡単に金魚はすくえるようであった。

 

100円で3本と案内に載せていたが、どうやらそのあたりはかなりいい加減なようで、今日は5本で行きましょうということになった。金魚すくいの担当は二人であったが、無償ボランティアのような人が二人もいた。4時から金魚すくいは始まるのだけれどもお客となる住民が集まるのか少し気になっていた。

 

けれどもお客はもっぱら子どもたちでコンテナの周りは賑やかになっていた。子どもたちは真剣な顔で金魚すくいに挑戦していた。やはり幼子ではうまく金魚はすくえないようだ。小学生の中ほどになるにつれて要領を掴むようだ。中には5回も挑戦する子どももいたようだ。

 

しばらく様子見をしている子どもがいた。そして、「20円ぶんだけやらしてください」と言ってお金を差し出した。私はその子の目を見た。澄んだ綺麗な目をしていて、少しも悪びれた様子もなかった。ことわることもないと思ったので、すぐに「いいよ。一本おまけしておくからね」と言って金魚すくいの網を2本渡した。

 

 

ドクダミと孫

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雨はしとしとと昨日から降っています。道端ではドクダミがもう盛りを過ぎているのに真っ白な花をつけています。雑草と言われているのですがその逞しさにはいつも脱帽してしまいます。純白の花がいかにも力強い芯の強さを感じるからです。

 

孫たちがやって来ました。小さな子どもを見るのは年寄りには何よりの楽しみの一つになっています。そうは言っても何というか時間の経過が早くてとても言葉では言い表されないくらいです。生まれて数か月の頃にちらっと見た顔は、もう誰かに似ている気がするがどうにも分かりません。

 

確かに若い親のどちらかに似ているのだと思うのだが、はて、口かな眼かななどと思ってみても似ているようでもあり、そうでないようでもあって定かでない。けれども爺や婆などと比べてみると、何となく似ているような気になってくる。これは全く予期せぬ感情の表れである。

 

そして、これは目に見えない血統というベール越し

 

に見ているからかもしれないと思い至る。こればっかりは理屈ではどうにもならない訳の分からないものである。それがまなこの中に薄いフィルターとなって張り付いているのだから、もはやどうすることもできない。願わくば無事に育ってくれることを願うのみである。

 

 

 

いけないこと

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このあたりでは台風による被害は軽微でした。有難いことです。そうは言っても各地では大きな災いを残していきました。明日は我が身と思っています。近頃身の回りで起こっていることで、少し気になることがあります。それはTVでも報道されている子どもによる人の殺傷です。

 

どうしてこのようなことが起こってしまったのか、当初は見当もつかないことでした。あの報道からずーっと頭の中で渦巻いていたものが、ここにきてようやく形となってきました。これは個人の考えですがこういう風に思っています。

 

子どもの頃にいくら粗暴な振る舞いをしても、それが即犯罪に結びつくことは滅多にあるものではありません。ほとんどの子どもたちはそのようなことをして育って来ています。そこには不文律の掟のようなものが存在していました。それは子ども時代に、いつのまにか親や兄弟から植えつけられて行くのが普通の子どもの姿です。

 

子どもは親からそのような人としてのやってはいけない戒めのようなものを、しっかりと脳裏に焼き付けられます。ところが親がその大事なものを自分の親から引き継いでいないとしたら、生まれてきた子どもたちはどうなってしまうのでしょうか。そう考えてみたのですが、このような不幸な連鎖はもう続かないように願うばかりです。

 

赤トンボは群れるだろうか

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幾日振りかで待っていた雨の音を聞くことができました。日本の各地で大雨の被害が出ているときに何と不謹慎と思われますが、このあたりでは猛暑が幾日も続いていて、一滴の雨も降らない日があったのです。それは不思議なことですが、事実なのです。

 

狭い日本でもこのようなへんてこりんな気候になっているので、世界規模で見てみると私たちには想像すら出来ない現象なのだろうと思います。少しのお湿りで喜んでいるのですが、やはりセミの鳴き声はいつもの年とはだいぶ違っているように思います。

 

それは圧倒的に数が少なくて気の毒なほどいません。ニイニイゼミはばらばらと鳴いているのですが、アブラゼミともなると鳴いているのが不思議なくらい数を減らしています。これも天の采配で今年は少ない年なのかもしれません。そういえばトンボも少ないように思います。秋になると五萬と群れている有り様が目に浮かんできます。

梅雨明け宣言とアブラゼミ

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一気に厳しい暑さが押し寄せてきて居座ってしまいました。それも一日中高い気温と蒸し暑さを連れてきたのです。これでは人も動物も、それに植物にしたってたまりませんね。今までいい塩梅にお湿りの日があったのですが、それもここにきてピターっと無くなりましたので余計に暑さは堪えてきます。

 

過日セミの話をしてきました。ここにきてアブラゼミが鳴いてくれました。セミが鳴くまではどうして鳴かないのかと、森羅万象の神様を恨んだりして、まったく見当違いな思い込みの摂り越し苦労までしてしまい、随分と遠回りな心配をしたものでした。そして、ようやくニイニイゼミの後からアブラゼミの登場となったのです。

 

このアブラゼミは暑い気候の申し子のように、油を想像するぴったりの色と、うだるような暑さの中でこれでもかというえげつない鳴き声をまき散らして、もうどうにでもしてくれと言うのを待っているのかもしれないなどと、穿った見方をしてしまうほどに、首をひねりたいのをぐっとこらえるほどに、たまらなく愛くるしい昆虫だと思っています。

 

アブラゼミ。よく命名したものだとほとほと感心してしまいますが、真夏に油と聞いただけで、異常な暑さを思い出し、すぐに汗だくになって全身から汗がしたたり落ちてくる気持ちになってしまいます。わが家の庭のあちこちからこのセミが飛び立っていって、後に茶色の抜け殻を残していきます。

 

 

セミがいない世界は

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やはり実際にセミの声をこの耳で聞かない事には納得がいきませんでした。確かにあのじーじーという何とも哀愁が漂うような、息つき暇もなく鳴く、いやらしい風情のセミの声を聞きました。それは嬉しかったです。涙こそこぼれることはなかったのですが、胸がキューンとしてきました。そして、その僅かな瞬きの間に、わたしの古びた脳細胞の一角がぴかーっと光ってたような気がしたのです。

 

あれーと思いました。するとわたしの考えの中に分け入ってくる感慨があったのです。ようやくいつものセミが鳴く夏になった。という思いが浮かんだことなのです。そうだ。もしかしたらセミがあまりにも鳴かない時を過ごして来たのは、常の世界ではなくてチョット次元が違う世界に迷い込んでいたからかもしれないと思ったのです。何とも子どもじみた発想ですが、わたしは本気でそんなことを感じたのです。

 

ようやく元の次元の世界に戻ったと安心していますが、果たしてそうなのかまったく確かな証しになるものは、今のわたしにはニイニイゼミの姿とその鳴き声だけしかないのです。数十年前にはそれこそ想像の翼を広げて、よく空を飛んでいたものです。今はもうすっかり飛べなくなりました。けれども目の奥から意識の力を借りてきて、多分このような考えの人だろうな。などとイメージできるようになって来たように思うのです

 

 

ニイニイゼミが鳴いている

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待ちに待っていたセミの声を聴くことが出来ました。夏が訪れて最初に声を張り上げるのはいつもニイニイゼミです。あの耳鳴りに似ている声を聴くと、やっと夏らしくなったと実感が湧いてきます。そのセミの声を聞くのが、いつもの年よりは幾分遅くなっているように感じて、とてもやきもきさせていたのです。ところが今月の初めのころに、平場の土地でニイニイゼミの声を聞いたという情報は入っていたのです。

 

後ろに幾分高い山を従えている里山の縁を削って、造成したひな壇のこのあたりの場所では、田んぼがすぐ近くから広がっている平場とは何かにつけて異なっているようです。冬の降雪時などではこのあたりは平場より5から10センチは多く積もります。大雨が降った後などでは、さっと水がなくなるこのあたりとは違って、下の平場では道路が冠水したりすることがあるのです。

 

近くの山の中を走ることを日課のようにしている私ですが、ようやくセミの声を聞いたときはわが耳を一瞬疑いました。けれども確かに聞こえてくるニイニイゼミの鳴き声にふと安堵の胸をなでおろしていたのです。それというのも、いつもと違って鳴きはじめが遅いと感じていたからです。大暑を過ぎてからその声を聞いたのですから、その思いは格別な感があったのです。