走ることの楽しみ

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昨日は山を走ってきた。先週の日曜日にマラソン大会に参加したので、およそ一週間ぶりの走りだった。都会の街中を走るのも心が躍って楽しいことであるが、私にはどちらかというと一人で山の中を気ままに走っているほうがよっぽど性に合っているようだ。

 

マラソン大会に参加して大勢の人たちと走ってきたが、そこには普段では味わえないような雰囲気とか周りのスピード感などによって、知らず知らずのうちに自分のペースが違ったものになってしまう。言ってみれば流れに吸い込まれるようにペースが上がってしまう。

 

それは普段ではとてもやらないスピードであって、いつもそのスピードで最後まで持ちこたえることができるのか、心配になってしまう。それでも何とか完走できるのは、日ごろの地道な練習を積み重ねてきているお蔭だと思っている。

 

これは言ってみればオーバーペースなのだから、スピードを落とせばよいのだけれども、そうは言ってもドンジリを走っていてはもはや走る意味など見出せないものだ。そうまでしてマラソンを走る気は持ってはいない。

 

まあ、何はともあれ今はまだ全体の中ほどに留まっているので、もう数年はこのマラソン大会に参加していこうと思っています。それにしても今年のマラソン大会には大勢の若者が参加していた。その熱気やパワーを味わうことができただけでも意味はありました。

 

わたしのマラソン

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今日は某マラソン大会で走ってきました。台風が近づいていましたがここでは秋日和に恵まれてよい天気でした。10Km走ったのですが今年もどうにか完走をすることができました。毎回走るたびに目いっぱいの力を出して走ってきます。

 

そのためのグッツとして心拍計付きの腕時計をして胸に発信機が組み込んである胸バンドして走ります。これは練習の時もやっていることです。普段は130くらい数値の間を走っているのですが、マラソンの時はその数値をはるかに超えてしまうのです。

 

その数値は170台を常に刻んでいてMAX180を越えると、スピードを落としていきます。こうなると普段トレーニングしているものがすべて出てくるようで、それを走りながら思い出してはそれを走りに生かすようにしていきます。

 

そうでもしないと10Kmといえども当初目標の達成などは思いもよらないことになります。そのためかここ十年くらいはほほ同じようなタイム値になっています。今はこの一本で満足しています。そして、明日からまた来年に向けての練習を始めていきます。

子猫との出会い

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わが家のポンポコリンは、朝になると私のベッドをガリガリと爪とぎして挨拶にやって来ます。それは嬉しいのですが、何とも困った癖がついてしまったようです。そうは言ってもその迷惑な音を聞くと、何やら今日一日が始まることも事実です。

 

丁度一年ほど前に近くの野原で子猫を拾ってきたのです。その場所は小高く盛り上がった山のすそ野になっていて平らにならされていました。そこに桐箪笥の原材料となる製材されたばかりの木材が、いくつも横に立てかけるようにして晒される場所になっていました。

 

そこは里山に通じる道のわきにある場所でしたので、山に走りにいくときはよく目に入るところでした。あの日も山に向かって走っていくと何やら小さな黒いものが、丸太が積んであるところでちょろちょろ動いているのが見えました。

 

そばに近づいていくとまだ幼気な猫が一匹、何かにじゃれているのがわかりました。すぐに気がつきました。「捨て猫!」。あたりを透かして見るとほかにも少し大きめな猫が走り回っていました。その子猫を見たときに胸の高鳴りを覚えたものです。

 

まったく無防備に戯れている姿に私は危ういものを感じたのです。幸い空にはトンビやカラスはいませんでした。このままにはしておけないと妙にせかせられるようなものを感じていました。10月の中旬ともなると朝夕の冷え込みが厳しくなってきます。

 

明日まで待っていてはその小さな命はどうなるのか火を見るよりの明らかなことです。私は山のなかを2時間ほど走り終えると、すぐにあの小さな猫がどうなっているのかあの場所にいってみました。するとまだいたのです。もうこうなると一刻を惜しむように家に急いで向かいました。

 

百日紅と柿の消毒

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このところの朝夕の庭の様子をうかがっていると、季節は確実に秋に向かって装いを新たにしているようだ。落葉する木々は身にまとっていた葉を落とし始めている。東の方にある百日紅の木もそうだが、これから紅葉シーズンになるとその小さな葉を赤くしようと一生懸命に頑張っている様子などはほほえましくなってしまう。

 

とはいえ今年の百日紅は厄年のようで、晩夏に咲いたピンクの花も心なしかわびしい感じがしていた。それというのもこの百日紅にはカイガラムシと煤のような黒いものが付いてしまうのが恒例のようになっていた。ところが今年はその兆候が顕著になって、あたり一面の木々を黒く覆ってしまっていた。

 

そうなるとここから5メートルしか離れていないところにある柿の木は、その被害をまともに受けてしまったようだ。柿も消毒はしていたのだが、その葉は黒い丸い印が刻まれていてみるからに痛いたそうになっていた。そうでなくても今年の夏の日照りによると思われる影響から柿の出来が悪く、実はいつものように沢山ついたのだが、虫に食われたわけでもないのに、熟したようになってぽたぽた落ちてしまう。

 

これから冬を迎えると庭木の消毒をするのだが、今年はいつもやってきた石灰硫黄溶剤による噴霧を念入りにやらなくてはならないのかもしれない。特に百日紅は枝を落としてから噴霧しているが、木肌が黄色くなって濡れているように噴霧していたが、それでも真っ黒い煤のようなものがたくさん発生したので、噴霧の濃度を濃くするか、刷毛で塗るようにしようかと考えているところです。

チャレンジしよう!

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わが家の一人娘のぽんぽこりんの猫お嬢様は今朝もかわいい声で挨拶していました。さて、机に乗っているデスクトップパソコンは、24インチのもので毎日の生活の中では必需品になっています。それが調子が悪くなると、本人の気分までもがおかしくなってしまいます。そのパソコンは購入してから丁度5年目を迎えています。今までに一度ハードディスクがダメになりました。

 

TVを録画できる機能も備わっていて、とても気に入っています。ところがパソコンのアプリケーションのVAIO Updateのお知らせのダウンロードメッセージの更新を何気なくしたところ、パソコンは不調になったのです。それからは、いろいろと試したのですがダメでした。

 

思い余って製造メーカーの電話につないだのですが、30分も待ってもつながりません。そこですっかり諦めて、TVを観なくてもパソコンだけ使えればよいと思ったのですが、何ともつまらない一日になったのです。そこで奮起してまたトラブルを解決しようといじくりまわしてみました。

 

そして、コンピューターの高度の修復にたどり着きました。それは「コンピューターイメージの再構築」をして保存していた状態に復旧させるものでした。今まで修復作業は何度か試したことがあるのですが、この高度の修復は何というかパソコンが使えなくなるかもしれないという、一種の危機感があって使ってはいなかったものです。

 

前準備をして画面上に展開しているファィルなどを一つの新規ファオルにまとめました。さらに外付けのHDにそのファィルを保存しておきました。そして、スタートして2時間以上が過ぎて再起動して完了しました。さて、どうなっているだろうか? 心臓はバクバクしていました。

 

高鳴る期待感と反する諦めの境地が入り混じる中で、パソコンにパスワードを入力しました。「ようこそ」の文字が浮かんできました。そして、画面が出てきました。あれ! いつものようだな? と思いました。パソコンは何事もなかったかのように回復していました。

 

後処理を済ませてみると、すっかり正常の状態にパソコンは戻りました。嬉しかったですね。ここまで回復できるとは少しも思っていなかったのです。いままでは言ってみれば小さな回復に拘っていて、無駄な時間を費やしてきたものだと思いました。知らないというのはそれこそどのくらいの回り道をしているのかも分からないものだと思いました。

今回の回り道はわたしにとっては大層な益になったと思います。諦めないということがその解決を導いたのかもしれません。それも運のうちかもしれません。こういうことは何回もあると思ってはいけないのかもしれません。やはり決め手はやってやるぞという気構えとチャレンジ精神だと思っています。

 

 

 

お茶の花と安全運転研修会

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昨日研修会に参加してきました。この高齢者を対象とした車の研修会には近在から50名が集いました。最高齢は91歳でした。わたしの隣には81歳の人がいたのですが少し話す機会がありました。「お元気ですね。91歳の方もおられますがびっくりしました」と言いましたら、「農家の人は車がないとしごとになりません。

私は家内を亡くして独り身ですが、やはり車がないと何かと不便です。車は手放せません」というお話でした。年齢が高いからと言っても人それぞれの理由から車がない生活は成り立たないとのことでした。わたしは75歳になったら、車を運転することを控えようと思っています。

その理由は交通事故を起こして万一相手の人を死なせてしまったら、自分自身はどうなるかと想像するととても怖くていたたまれなくなるだろうと思うのです。それまでは極力注意しながら車に乗ることになるでしょうが、こればっかりはその保証はありません。

車は乗らないことに越したことはないのですが、この研修会にいって気になることに気が付きました。それは、県警の事故体験車を受講した後でもらったパンフレットに書かれていたことです。それによると車を手放した人が結構事故に遭われているということなのです。

どういうことかと言うと、今まで自分で車に乗っていた時の間隔が残っていて、それが事故を招いてしまうらしいのです。とくに道路を横断するときに、右側から渡っていって左側で車に跳ねられることがあるといく事実です。これは左側を走ってくる車があって、その車が自分のところにくるまでにはまだ間があるという、錯覚から起こるようなのです。

 

 

里山の緑のトンネル

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昨日は近くの里山の中を走っていました。緑のトンネルに入るとすっと吸い込まれれていきました。しかし、いつもと少し様子が違っていることを肌身に感じたのです。目を見開いてあたりの風景を眺めていて突然はっと気がつきました。

 

まるで別のところに来たようないつも感じていた温かく包み込んでくれる感じが失せていたのです。しかし、厳密に言えばそうではなくてその温かみは違ったものになっていました。すっぽりと体を受け入れてくれた緑の空気の層は、まったくなかったわけではなくてその気配は形を変えていたのです。

 

それはいつもの温かみではなくて少し身が引き締まる感じのものに変わっていました。肌を刺すような冷たい気配は微塵もないのです。どちらかと言えば緑の木々から何か得体のしれないものが出ているような感じなのです。それは言ってみればこれから厳しい冬がやってくるために、今まで身にまとっていたものをチェンジしたみたいに思えました。

 

緑のトンネルからはエネルギーのようなものが放出されて、その空間の中は冬支度が整ったのかもしれません。木々の一本一本は言ってみればとなりの木と話し合っているように、木肌やその姿は生き生きとして充実した命を宿している生物だと言わんばかりの感じが、ひしひしとこちらに伝わってきました。